1話 生贄
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ぽつり、と頬に冷たい雨の雫が落ちた。
いつの間にか上空を真っ黒な雲が覆っていた。
(雨が降ったら水が飲める!)
カラカラに乾いた喉を潤そうと、アスミは躊躇なく舌を突き出した。
雷が鳴り、期待が高まった。
しかし雨はまだ落ちてこない。
と、近くでヒヒヒ、と誰かの笑うような声がした。
声のする方向を見ると、巨大なカラスが岩肌に止まっていて、ジリジリとこちらに近づいてくる。
「ひっ」
鳥というよりは大コウモリのような、規格外のサイズである。
カラスが口を開くたびにヒヒヒと神経に障る鳴き声が聞こえ、ヒロインの胸は不安に満たされる。
まるで嘲笑うかのような不快な鳴き声だった。
カラスはいつしかたくさん集まり、崖の上部を黒く染めていた。
間近にいた一羽がアスミの頭を、するどいくちばしでコツンとつついた。
強い力ではなかったが、疲れきった体にはダメージが大きい。
「やめて。あっちに行って」
しかし、その声は弱々しく、説得力は皆無だった。
カラスは次々に飛んでくる。
不気味でたまらないが、両手を縛られているため追い払うことができない。
アスミは体を捩り、首を左右に激しく振った。
「早く死ね。死んでその体を食わせろ」
一番体の大きなカラスがそう言って、アスミは両目を見開いた。
幻聴じゃない。確かに聞こえた。
別なカラスがこう言った。
「今から襲っちゃっていいんじゃない。どうせ抵抗なんてできっこないし」
「確かに、生き餌のほうが、美味いか」
リーダーらしきそのカラスの一声に励まされたか、他のカラスまでもがアスミに襲いかかってきた。
「…食われる!」
アスミが覚悟を決めかけた時、雲の隙間から一条の光がさしたかと思うと、光の中から巨大な何かが、雲を突き破ってその姿を現した。
「げ! 神だ」
カラスたちが一気に飛び去った。
ゴーッという、地鳴りにも似た風切り音とともに、それは素早い動きでこちらに向かってくる。
大きく長くうねる体。
光とともに現れた巨大な飛行物体は、ものすごい勢いで空中を移動し、アスミの頭上でピタリと止まった。
真っ黒な瞳。耳の近くまで大きく割れた口。むき出しになった鋭い牙。
金色に輝く硬そうなウロコ。
それは恐ろしくも美しい、夢の世界に棲む生き物だった。
「ドラゴン…」
赤い火柱が立ち、アスミの体を包み込んだ。
後にして思えば、カラスたちなどよりも、よほど恐ろしい姿のはずだった。
ドラゴンの逞しい顎は、甘噛み程度でアスミの体を八つ裂きにできるだろう。
しかし、恐怖など感じる余裕はなかった。
ドラゴンの放つ、神々しい輝きにアスミは圧倒されてしまい、その姿から目が離せない。
黒く大きな瞳に見つめられると、世界には自分とドラゴン以外、何もいないような錯覚さえ覚えてしまう。
「なんて……美しいの」
アスミは感嘆の声をあげた。
幼い頃から、竜の物語が好きだった。
擦り切れるほど読み、くたくたになった絵本は、今も自宅アパートの小さな本棚に残してある。
感動に打ち震えるアスミの頭に、誰かの声が流れてきた。
「生きたいか」
アスミは両目を見開いた。
首をのけぞらせて見上げると、ドラゴンが、挑むように体を傾けた。
「生きたいか。アスミ」
よく通るバリトンが頭の中に響き渡る。
(どうして私の名前を知ってるの……)
しかし問い掛ける隙も与えられず、ドラゴンはこう続けた。
「お前が生きたいと望むなら助けてやる。望まぬなら、ここで死ね」
ポツポツと降り出した銀の雨に打たれ、緑色の鱗が輝いている。
アスミはゴクリと唾を飲んだ。
これは目の前に垂らされたクモの糸だ。
消えかけていたか弱い命に、救いの手が差し伸べられている。
「生きたい!」
アスミは叫んだ。